スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

ラベル()が付いた投稿を表示しています

富察傅恒(ふちゃふこう)は清国乾隆帝の頃の大将軍で皇太子を支えた皇帝の義弟

富察傅恒(ふちゃふこう) 富察傅恒(ふちゃふこう)は1722年に生まれ、1770年に没した清王朝の大臣・軍人です。満州族出身の名門貴族です。乾隆帝の第一皇后、富察氏の実弟です。軍機大臣、大學士を務めました。 概要 侍衛(しえい)を経て内務府大臣、戸部尚書、軍機大臣、保和殿大学士を務めました。一等忠勇公を授かりました。皇太子を補佐する太子太保、太保を務めました。大金川の戦いで総指揮をとりました。乾隆帝からは文忠の号を贈られました。息子は嘉勇郡王に封じられました。 誕生 傅恒は満州族の名門、富察族に生まれました。 戦争 1747年~1749年 大金川の戦い(現在のアバ・チベット族チャン族自治州)。 1754年~1756年 内乱を鎮圧しました(現在のイリ・カザフ自治州)。 1768年~1769年 軍の最高司令官となりビルマへ侵攻し、戦に敗れて停戦を結びました。 逝去 ビルマへの遠征から戻り、北京でマラリアにかかって亡くなりました。 家族 父は李栄宝(りえいほう)です。 妻は那拉氏(ならし)です。 姉は乾隆帝の皇后、孝賢純皇后富察氏(こうけんじゅんこうごうふちゃし)です。 甥の 明瑞 は乾隆帝の義理の息子ですがビルマ征服に失敗し自害しました。 富察傅恒(ふちゃふこう)が登場するドラマ 瓔珞(えいらく)紫禁城に燃ゆる逆襲の王妃 富察皇后(ふちゃこうごう)の弟として侍衛(しえい)という皇帝の護衛役で登場します。乾隆帝の弟、弘昼(こうちゅう)や海蘭察(ハイランチャ)の友人という設定です。性格や行動はとても真面目で仕事が終わった後は書斎で本を読んで兵法の勉強をしています。馬術はもちろん棒術にもすぐれ戦場での武勇は数知れず。そして身近にいる美女にも一切手を出さず生涯を通じて一人の女性を愛し抜いた男の中の男です。 関連記事 孝儀純皇后魏佳氏(こうぎじゅんこうごうぎかし)は乾隆帝の第三皇后 儲秀宮(ちょしゅうきゅう)の解説 全話あらすじ一覧 瓔珞<エイラク>紫禁城に燃ゆる逆襲の王妃 ストーリーを詳しく解説! 参考: Wikipedia 中国 - https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%82%85

孝儀純皇后魏佳氏(こうぎじゅんこうごうぎかし)は乾隆帝の第三皇后: Empress Xiaoyichun

孝儀純皇后魏佳氏 乾隆帝の第三皇后です。嘉慶帝の生母です。後宮唯一の漢民族出身です。父は内管領という地位にいた魏清泰、母は楊佳氏です。父の身分は三等公で官位は超品といって正一品よりも高い位です。孝儀純皇后には二人のきょうだいがいました。魏佳氏は1727年に生まれ、魏貴人となった後、1745年18歳頃に魏貴人→令嬪に冊封され1749年に令妃になりました。1756年29歳頃に固倫和静公主を産みました。1757年に永璐を産みました。1758年31歳頃に和碩和恪公主を産みました。1759年32歳頃に貴妃に冊封されました。1760年33歳頃に第十四皇子の颙琰(のちの嘉慶帝)を産みました。1763年に第十六皇子を産みました。1766年39歳頃に第十七皇子の永璘(慶僖親王)を産みました。1765年に皇貴妃に冊封されました。1775年に48歳頃で亡くなりました。1796年、乾隆帝の引退とともに皇太子が即位すると魏佳氏は皇后に追尊されました。 孝儀純皇后魏佳氏が登場するドラマ 「瓔珞(えいらく)紫禁城に燃ゆる逆襲の王妃」 このドラマでは魏瓔珞(ぎえいらく)という名前で登場します。瓔珞(えいらく)という名前やストーリーは架空のものです。 考察ポイント 少し考えてみてください。18歳で嬪になり、初出産までの期間が10年あります。避妊薬というものが当時あったのかどうか知りませんが、29歳の時にコウノトリが来たということは、それまでの10年間は乾隆帝に愛されたのかどうだったのでしょうか。あっという間に昇進したのに、なぜ子ができなかったのか謎です。現代医学の常識で考えれば、愛されればあっという間に子ができるはずですが。もしかしたら古(いにしえ)の避妊具のようなものがあったのかもしれません。 乾隆帝の好みは成熟した色気と才気を兼ね備えた女性ということなのでしょうか。嫡子となる子を育てる時に母が賢くある必要があると考えた末のことなのか。それとも権力の関係で順番が回って来たとか。 関連記事 富察傅恒(ふちゃふこう)は清国乾隆帝の頃の軍人で皇太子を支えた皇帝の義弟 儲秀宮(ちょしゅうきゅう)の解説 全話あらすじ一覧 瓔珞<エイラク>紫禁城に燃ゆる逆襲の王妃 ストーリーを詳しく解説! 参考: 中国語版Wikipedia https://zh.wikipedi

儲秀宮(ちょしゅうきゅう)とは、紫禁城にある宮殿のひとつで明王朝と清王朝の側室の住まい

儲秀宮(ちょしゅうきゅう) 儲秀宮(ちょしゅうきゅう) 写真はwikipediaから引用しました 儲秀宮(ちょしゅうきゅう)は現存する中国の紫禁城の中にある歴史建築です。明王朝と清王朝の側室が占有する住居でした。儲秀宮(ちょしゅうきゅう)が建てられたのは1420年の永楽帝の時代で当初は「寿昌宮」と名付けられました。1585年に「儲秀宮」という名前に改められました。1884年に西太后が大規模な改修を行いました。 中国ドラマ「瓔珞(えいらく)紫禁城に燃ゆる逆襲の王妃」に登場する儲秀宮(ちょしゅうきゅう)。ドラマの中では高貴妃(こうきひ)が住んでいました。 実際に乾隆帝の時代に長春宮に移る前の富察氏や、高氏、魏佳氏が住んでいました。 基礎データ 英語名: Chu Xiu Gong または Palace of Gathering Excellence 所在地: 39°55'11"N   116°23'22"E 関連記事 孝儀純皇后魏佳氏(こうぎじゅんこうごうぎかし)についての解説 参考: 儲秀宮 Wikipedia https://zh.m.wikipedia.org/wiki/%E5%84%B2%E7%A7%80%E5%AE%AE\/

関連コンテンツ